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⑪お別れのとき

その特養で過ごして1年1か月、別れは介護と同じく突然やってきました。夕方に連絡が入り、私が特養に着いたとき夫はすでに心肺停止状態で心臓マッサージを受けていました。その日、お昼ご飯をたくさん食べて普通に過ごして午後に心臓トラブルを起こしたのです。コロナ禍でしばらく面会もできていませんでした。最期はお腹もふくれてウトウトと眠るようにぽっくりと逝ったのです。苦しまずに良かったという思いとともに、あまりにも見事な死にざまに私は「コンチクショー」とも少し思いましたよ。だってこちらはさんざん苦労して介護してきたのに最後はなんのねぎらいの言葉もなく一人逝ってしまったのですから、ほんの少し夫をうらめしくも思いました。

コロナ禍の影響もあり斎場はどこもいっぱいで娘夫婦が一生懸命探してくれましたが、自宅からは少し遠いところになりました。機敏に段取りをしてくれた娘夫婦には本当に助けられました。つくづく娘を産んだことに幸せを感じました。一人っ子だったので小さいころ「犬の子でもいいからもう一人産んでよ」と娘が言っていたことを懐かしく思い出します。さみしい思いをさせましたが本当にたくましく育ってくれました。

私は淡々と喪主を務めました。火葬のボタンを押すときもとくに躊躇はありませんでした。後から娘が「お母さん、ためらいもなくボタン押したよね。夫婦ってそんなに割り切れるものなの?」と驚いていました。このとき私は無事に見送ることができること、そして痛みもなくあっという間に旅立つ夫に対して「良かったね」とむしろ清々しい気持ちだったのです。

親子と夫婦は違います。50年間の夫婦生活、良いことも悪いこともいろいろありました。娘が成人して夫が元気なときなら別れることもできたかもしれません。でも病気になってしまった夫を見捨てるわけにはいかない。もしそんなことをしたら私自身が後悔をする。娘に涙ながらに離婚したいと言ったあの日をピークにして私は夫を看取る覚悟ができたのかもしれません。だからやれることはすべてやり切りました。後悔はありません。

私はもともと困った人を放っておけないたちなのでしょう。だから看護師という仕事をずっと続けてこられたし、職場のなかでも気になるメンバーには声を掛けてきました。今でも昔のメンバーたちから助けやアドバイスを求められる「SOSの会」という会があるのです。お互いに「元気」を分かち合える会です。

悔いを残さず自分の納得できる生き方をしたいというのが私の介護のエネルギーだったと思います。こうして12年半におよぶ自宅での介護生活は私のささやかな財産となりました。(完)


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